新しい葬儀の形! 自由葬
既成の葬送の形にとらわれないより自由な葬送です。
自然葬というものがあります。自然葬という言葉からは「自然に帰る。」ということ、つまり山や海での散骨を強くイメ−ジします。
自然葬を含み、もっと広く新しい葬儀の形を提案していきたい
・・・・・・これが当社の自由葬と散骨です。
具体的には「アメリカ映画で見たように、花嫁衣裳で棺に入りたい。」という遺言通りに火葬された女性や、大好きだったジーンズ姿や白いスーツで入棺した方もおりました。要は飾らず、人生の最後の最後でも故人らしく逝く、そんな葬儀です。
葬儀の形は時代とともに変わってきました。
現在のような葬儀の形になったのは古いことではありません。
平民の死者は家の近くに土葬され目印の石を乗せた簡素なものでした。
「姥捨て山」に捨てるということもありました。
そもそも江戸幕府の民衆統治のための方策(士農工商非人の身分制度はその典型的なもので、他には頭髪や着物規制など)の一つとして、 檀家(だんか)制度が始められ、これに伴い一般大衆も墓に入るようになりました。
さらに「○○家の墓」という形を取るようになったのは 明治時代になってからです。
「墓地、埋葬等に関する法律」第一条(法律の目的)
昭和23年7月公布の「墓地、埋葬等に関する法律」では火葬を義務付けていますが、これは敗戦後の非衛生的環境の中で伝染病が流行したため、これを予防するために土葬をやめさせることがねらいでした。
「墓地、埋葬等に関する法律」施行後、火葬が一般的になるにしたがって葬儀のあり方も変わりました。
土葬の場合、死者との別れが墓地ですので墓地が葬儀の中心でした(告別式もありませんでした)。会葬者はみな墓地まで葬列を組んで歩き、墓地で別れを惜しみました。
しかし火葬の場合、墓地では納骨をするだけです。死亡したりといえどもまだ姿、形があるうちにお別れをしたいということで告別式が生まれ、これが葬儀の中心になりました(告別式は火葬の前に行われるのが普通ですので)。
このように葬儀は変わってきましたし、これからも葬儀のあり方は変わっていくでしょう。
その一つが自由葬儀であり散骨です。
元旦は神社に初詣して、
お彼岸や8月15日のお盆はお寺でお墓参り、
七五三は神社で、
12月はクリスマスを祝う。
さらに、結婚式は式場付属の教会で行うウェディングクリスチャンが流行っていますが、これはどう考えたらいいのでしょうか。まじめな一神教のキリスト教徒の皆さんに失礼ではないでしょうか。
一見無節操に思えますが、多神教の日本人には仏も天照大神もイエスキリストも海の神、山の神、川の神と同様にたくさんいるの神のうちの一つであるということでしょうか。
数年前に友人の娘さんの結婚式に出席しました。
キリスト教徒ではないのに教会で式を挙げるというので変だなと思いました。
式場付属のしゃれた教会の中で3人の合唱団が賛美歌を歌い、白布を掛けた牧師さんが聖書を手に神の言葉を述べ、二人は神に永遠の愛を誓いました。不躾な私は隣席の知人に「あの牧師は本物?」と失礼な問いかけをしました。
「きっと本物の牧師さんで、今日は自分の教会からこちらへ出張して来ているのでしょう。」と言う返事でした。私もきっとそうだろうと思いました。
ところが後日結婚式に詳しい人材派遣会社の社長にそのことを話したら、「違うんだよ、あそこは牧師も合唱団も本物ではないよ。牧師は一日研修のにわか牧師で、合唱団も同様だよ。」と笑われてしまいました。教会も牧師も合唱団も偽りであったので、その娘さんの結婚式も偽りであったことになる。「神」に誓った二人の愛は偽りではないと思うけれど・・・
ちなみに本当の牧師に式を挙げてもらうには、信者となり長期間教会通いをして自他ともに信者であると認められなければならないそうである・・・納得。

昔と比べると日本人は確実に神社やお寺と疎遠になっています。お坊さんが布教活動をするとニュースになります。葬式屋(?)になってしまっています。そんな訳でだんだんと宗教そのものが日本人の精神性から抜けつつあります。この抜けた隙間にオーム真理教や統一教会などのいかがわしい宗教が入り込みます。
しかるに今の日本では信仰心の薄い人も、仏も信じない人も死者となれば仏陀(ブッダ)に帰依し、そして仏教徒名である戒名を受けているのです(実際は高額で買うといった方が当たっている)。
もし仏教徒としての自覚があるならば、キリスト教における洗礼名のように生前に戒名を受けるべきではないでしょうか。
遺族もどこまで仏教を信じているか疑わしいと思います。亡くなった時は昔からそうしてきたから、だからただそうしているに過ぎないのではないだろうか。
宗教が本来の姿から離れ、葬儀式の演出の一部分としての意味合いしかなくなっているのならば、いっそのこと勇気を出して宗教なしで葬儀を行うことのほうが自然ではないでしょうか。
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